折々のことば。2015年5月10日の長田弘の言葉。
見えてはいるが、誰もみていないものを見えるようにするのが、詩だ。 長田弘
鷲田清一の解説。
視界には盲点があるだけでなく、見えているのに見ようとしないものがある。
歴史のある時点ではだれにも見えないものもおそらくはあろう。
だから、見ることにはそれなりの努力が要る。工夫が要る。
他の人にはどう映っているかをこまやかに参照する必要もある。
修業時代にふれたこのことば、わたしにとっては哲学の定義でもある。
「読むことは旅をすること」から。
「折々のことば」3000回を記念して、筆者の鷲田清一さんとアナウンサーの山根基世さんの対談が行われた。
今年1月27日のこと。
そのアーカイブ動画の配信があって、先ほど試聴した。
その時に、これまで取り上げられた「折々のことば」を振り返って、鷲田清一さんが、提示したもののひとつ。
詩人長田弘の言葉は。
すんなりと、私の心に入ってくる。
…確かに、そうね。
見えている、はずだけど。意識していないことは、認識できない。
それを、「ほら、ここにあるだろう?」と意識させ、「あ、確かに、ある」と認識させる働きをする、のが詩である、と。
そう。誰もが目にしているんだけど、本当の意味で見えていない、こと。
そうやって、提示されて、初めて、見ているハズなのに、見ていなかった、ことに気づく代物(しろもの)。
まあ、それが出来る、ということは。
詩人の矜持ではある、けれど。
この言葉を取り上げて、鷲田さんは、この「詩」を「哲学」と読み替えて理解した、と言われた。
まあ、それは。鷲田清一は、哲学者であろうとする人だから。
臨床哲学、などという言葉を、私は初めて耳にした、気がする。
哲学を、お飾りのようにおしいただく、のではなく。
日常に落とし込んで、生活の一部として自在に扱う、ということか。
見えている、はずでも、意識できないことを意識する、には、何が必要か?
うーん。。多分、「あたりまえ」に片づけないこと。
本当にそう? と問いかけること。
人が、ではなく、私が納得できるか? にこだわること。
多くの人が、そうだ、といっても。私、が納得できないことには、うん、と言わないこと。
…限りなく、日本人社会からはみ出る、ような気がするけど。
ひとりになる、ことより、大勢に埋もれる、ことを怖れること。
そうであって初めて、言葉が、「私」の言葉が立ち上がってくる。
今日は、対談をざっくり聞いただけなので。
もう一度、聞き直してレポートしたいと思います。
画像は今年の2月28日、奈良公園で撮った梅。
ピントを前に合わせると、奥がぼやける。
けれど、全部に焦点を合わせると、いったい何を撮りたかったのかがわからなくなる。
…平板になって「撮りたかったもの」が埋没する。
写真を撮る、とは、何を取り、何を捨てるか、だと思う。
そう思ってきたけれど。
この歳になって思うのは、「捨てた」存在を、一方で「意識する」ということ。
…何を捨てたから、自分の欲しい「絵」は生かされた、のか。
仮に捨てなかった、としたら、どんな「絵」が今度は立ち上がってくるのか。
そういった、見えない「奥行き」のこと。