折々のことば。2024年7月18日の西川勝の言葉。
秩序の隙間に入りこみ、そこに迷路を見つけて遊びだすのが、アートのいかがわしさであり、わかりにくさ 西川勝
鷲田清一の解説。
でもそれが、流動し変化する生命の「曖昧(あいまい)さを輝かせる」と元看護師は言う。
人は世界を理解すべく言葉でそれを切り分けてゆくが、そのことで世界の複雑さを切り詰め、己の経験を型に嵌(は)める。
それに抗(あらが)って、人は元の混沌(こんとん)から再出発しようとする。
看護でも自分は理解以上にためらいを大切にしてきたと。
『臨床哲学への歩み』から。
「秩序の隙間に入りこみ、そこに迷路を見つけて遊びだす」って。
ああ、そうかもしれない、とまず思う。
きちんと、言葉でもって構成された、「秩序立った」世界。
もうそれは、きちんとした「かたち」になっていて、人は「言葉でそれ切り分けてゆく」。
それは「そのことで世界の複雑さを切り詰め、己の経験を型に嵌める」作業。
つまりは。「既成」の型に自分を押し込んでいく作業。
それは「世界を理解する」には手っ取り早い作業だけど。
時折、それに抗ってみたくなるのは。
自分が「世界」に組み込まれる、ことに窮屈さを感じるから、だろう。
不安定になってもいいから。自分を「無秩序」の世界に放り込みたくなる。
「人は元の混沌から再出発しようとする」と表現されているのは。そういう状態。
そして、冒頭の「秩序の隙間に入りこみ、そこに迷路を見つけて遊びだす」と。
まあ、何にせよ、「秩序」はかっちりと出来上がっているように見えるけど。
それはそう「見せている」だけのことであって。
その気になりさえすれば、至る所に「隙間」はあって。
そして、「そこに迷路を見つけて遊びだす」というのね?
そうね。「迷い」は、その「秩序」そのものに疑念を抱くから生じるわけだけど。
「ほら、こんなふうにもできるじゃん!」という試みは、「遊び」なのね?
ほお。そうすると。楽しくなければいけないわけね。
なるほど!
そんなふうに。心を飛ばし、浮遊させ。
その目で「この世界」を、「この世界の秩序」を眺めてみたときには。
「この世界の秩序」の隙間が見えてきて。
もう少し「別の」ものを加えてみてもいいかな? となる。
それが。「この世界の秩序」に組み込まれるものになるのでなく、「この世界の秩序」に対する、自分の対し方、オリジナルな自分の対し方となる。
「看護でも自分は理解以上にためらいを大切にしてきた」というのも。
「理解」は、「この世界の秩序」をそのまま受け入れること、であるから。
それに対して「ためらい」は。「本当にそうかな? そのとおりにしていいのかな?」という疑念だから。
結果、従来通りの対応になるとしても。一度は疑念を抱く方がいい。
なぜなら。それが「私」であるから。他ならぬ「私」である証拠だから。
そんなことを思いました。
まあ、私は。子どもの時から「なんで?」と言う子だったので。
親からも「変な子」とか言われて傷つきはしたけど。「なんで?」って口にしなくとも、そう思い続けている子どもだったので。
そのうち、人に発するのではなく、自分に問いかける、ことになっていったけれど。
まあ、よく考えると。常に「なんで?」と思うというのは。「この世界」が馴染みにくいものだった、のでしょう。
だからひとつひとつ。この世に対する「対し方」を、自分で決めていかなければならなかった。
子どもの頃からの「息苦しさ」「生きづらさ」は、ここに起因してたのか! に納得した今回の「折々のことば」でした。
でも。「そうしたくて、そうしてきたんじゃないよ」と言いたいです。(今回は1500字)
画像は、2021年2月に撮った、生駒の喫茶ヒュッテの花壇で咲いていたアネモネ。
…そうか。2月でアネモネが咲いていたんだ!と思って。
アネモネは、この濃い青(?)色が好きです。青は私と親和性があるように思います。