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自分のこころの痛みを覗き込む〜長田弘の詩「あのときかもしれない 九」〜

2018/04/25
自分のこころの痛みを覗き込む〜長田弘の詩「あのときかもしれない 九」〜
おとなが子どもを邪険に扱うのではなく、丁寧に、小さな友人のように扱うのを見ると、私は何かほっとする。
『ベンのトランペット』という絵本を紹介したときも、確かそういったことを書いた気がする。

「知らない」ことをバカにするのではなく、これはこうなんだよ、と分かり易く解説してもらう。
そう、今でもそんな風に、自分の知らないことを丁寧に解説されると私は嬉しくなる。

それは、ああ、今気がついた。
…それは、父がそういう風に、小さな私に、世の中のことを、新聞記事を、分かり易く解説してくれていたから。
あぐらをかいた父の膝の上に乗り、抱きかかえられるようにして、話を聞くのが好きだった。

今回は、子どもがどんな風におとなから「意味」を継承していくのか、を捉えたもの。


     「あのときかもしれない 九」        長田 弘

 

 掛時計がボーンとなる。鳩時計がクックーと啼く。目ざまし時計がピーンと一瞬鋭い音をたてる。秒針は走る。長針が大股で追いかける。短針はうずくまる。どの時計も急いでいる。急ぎながら、呟いている。

 時計屋さんの店のなかはいつも時を刻む音でさわがしかったが、時計屋さんはいつも静かなひとだった。一日じゅう店にすわって、黙々と、時計の修理をしていた。

 時計屋さんは散歩が好きだった。子どものいない時計屋さんは、子どものきみをよくいっしょに散歩につれていってくれた。時計屋さんの店にゆく。時計屋さんは、きみの家のすぐちかくだ。「きたな」。きみの顔を見ると、時計屋さんは立ちあがる。一本脚で、たくみに。時計屋さんは片脚がなかった。いつもズボンの片っぽを半分に折って、松葉杖をついていた。

 時計屋さんはきみにいろいろな話をしてくれた。長靴をはいた猫の話。北風のくれたテーブル掛けの話。立派な懐中時計をもった不思議の国のウサギの話。しかし、きみがいまでもいちばんよくおぼえているのは、時計屋さんがなぜ片っぽの脚を失くしてしまったかという話だ。

 「戦争さ」。時計屋さんは静かに言った。「戦争にいって、おじさんは片っぽの脚をなくした。おじさんだけじゃない。戦争にいったひとは誰でも、何かを失くした。戦争で死んだ人は人生を失くした。人生ってわかるかな。ひとが生きてくってことだよ。おじさんは人生を失くすかわりに、片っぽの脚を失くした」。

 「痛くない?」きみは訊ねる。きみは戦争を知らない子どもだった。

 「痛くなんかないよ。脚は失くなっちゃたんだから。痛くもなんともないさ。痛いのはこころだよ」。

 「こころ?」

 「そう、こころだよ。こころが痛い」。

 時計屋さんはそう言って、あとは黙ってしまった。子どものきみにはわからなかった。こころっていったい何なのか。でも、それは訊いてはいけないことのような気がした。こころって何だろう。こころが痛いってどんなことなんだろう。けれどもきみは、すぐにこころのことなんか忘れてしまう。

 きみの家がべつの街に引越したのは、それからまもなくのことだ。それっきりきみは、なかよしだった時計屋さんのことも忘れてしまった。だがあとになって、まったく突然に、きみはずっと忘れていた時計屋さんのことをおもいだす。戦争で片っぽの脚を失くした時計屋さんがいつかきみに話してくれた話。それはきみがふっと「あゝ、こころが痛い」と呟いた日のことだった。そうだ、むかしなかよしだった片脚の時計屋さんもおなじことを言ってたっけ。こころが痛いって。

 そのときだったんだ。そのとき、きみはもう、一人の子どもじゃなくて、一人のおとなになってたんだ。きみが片脚の時計屋さんの言った言葉をはっきりとおもいだしたとき。きみがきみの人生で、「こころが痛い」としかいえない痛みを、はじめて自分に知ったとき。

                       (『深呼吸の必要』晶文社・1984年刊)


朝6時に電話がかかり、父が亡くなった、という知らせを母から聞いたとき、一瞬私は硬直した。
けれど、次の瞬間には、死に目に会えなかったのなら、いつ帰っても同じ、という判断をしていた。
私は母に、仕事を片付けてから帰るから遅くなると告げた。
そして、学校に行って、1週間の休みを取るための段取り(…確か、期末試験が終わったあとで、成績処理もあった…)、自習課題やらを準備して、それから、車で奈良に向かった。
出発はお昼近くになっていた。

父と母の家は住宅地にあって、駅から遠く、車がないと何かと不便だった。
それから、子どもと杏樹(アンジー)も連れて行ったから、だろうか。二人を車に乗せてた? アンジーだけ? …その辺りは記憶がない。


その年の1月末。私は両親とともに主治医の話を聞いていた。
父は、その前の年に、京大の原子炉で中性子をぶつける、最先端の医療を受けたにもかかわらず、8ヶ月で癌が再発していた。
主治医は抗癌剤の投与を再開することを勧めた。
父は、もう抗癌剤はいい、と言った。
大学病院だったから、治療を続けない選択をすることは、退院を意味していた。

父は在宅での緩和ケアを希望した。
私は在宅の緩和ケアを引き受けてくれるところを探し、段取りを付けてから広島に戻った。
私は、3月半ばに短期の介護休暇を取り、引き続き6ヶ月の長期の介護休暇を取ることにした。

2月と3月の前半。
3月は、次年度のあれこれが、もう動き出す時期だった。
同僚に負担がいかないようにするために、私はフル稼働した。…通常の、1,5倍は働いた、と思う。
けれど、余命半年、と聞いていた私は休みを取るために必死だった。

校長の、介護休暇を取らせまいとする、あれやこれやの嫌がらせを振り切り、息せき切って奈良に帰った3月。
私は車に、ジューサーやらマキタのハンド式の掃除機やらを積んでいた。
ジューサーは、父に、癌に有効な、と聞く「にんじんジュース」を作るため。
ハンド式の掃除機は、歳を取ってくると、母には従来の掃除機が重いのではないか、と思ったため。

ジューサーには、広島の自宅で試しにやってみた私が、使い終わったあと、きちんと洗っていなかった汚れがついていた。
母は、そんなものは嫌だと拒否した。
私の買って帰った掃除機も、別に欲しくない、と拒否した。
父のセラピー・ドッグに、と買い求めた子犬も…、私の手のひらにすっぽり入るくらいの850グラムの杏樹(アンジー)を、父も母も触ってみることすらなかった。

そんなあれやこれやが募ったところに、母のカーブスの退会に付き合うはめになり、その退会規定に文句を言う母に嫌気がさして言った。
「もうそんなわがままばっかり言うんだったら、お父さんには介護休暇取ったけど、お母さんには取らないからね!」

母は、私が将来の母の介護を拒否した、と受け取った。
母のことだから、誤解するかもしれない、とは思った。
でも、私は苦しかった。
あれやこれや…私が提案するものをことごとく拒否し、自分の望むことしか望まない、そのかたくなさに、私は疲弊していた。

母が、どういう意味なのか? と私に訊いてきたら、
「介護をしないわけではないけど、介護休暇を取るのは本当に大変だったから、そんなわがまま言ってばかりなんだったら、お母さんの時には介護休暇までは取らないよ。」
と言うつもりだった。
けれど、母は私にではなく、父に訴えた。…病気の父に。

父は、私に「お母さんの介護はしないとおまえは言ったのか?」と問うた。
「ちょっと待って、お父さん、私は…。」
「言ったのか?」
そう言って詰め寄った父に腹立たしさを覚えた。どうして私の言い分を聞いてくれないの?
「…言ったよ。」
「…もう、いい。」「え?」「もう、側にいていらん。」

私は耳を疑った。…それが、1月末に退院してから、毎朝父にメールを送った私への言葉なのか…?
私は真っ直ぐ父を見た。
父は顔を背けていた。
「分かった。」と、しばらく経って私は言った。「じゃあ、私は帰るね。」

私は、訪問看護の医師の訪問を受けたときに、父がいまのところ介護が必要な状態でないことを聞き、必要な状態になったら連絡をくれるように頼んだ。
それから、校長に長期の介護休暇の取り消しの連絡をした。
そして、たった10日で、奈良をあとにした。
玄関先で、父は「家の鍵を戻しておいてもらおうか」と言った。
びっくりした。鍵を返せというの? 

一瞬硬直したけれど、すぐに「わかった。」と言って家の鍵を父に渡した。
…休暇は取り下げたけど、また様子を見に来ようと思っていた私の気持ちをくじかれた。
もう、いい、と思った。ここは父母の家。私には、広島に私の家がある。

父の回りくどしさに私は気づいていた。「帰れ」という代わりに「側にいて要らん」と言い、「返せ」という代わりに「戻しておいてもらおうか」と言い…。
父は私が「なんでそういうことを言うの?」と反発して、ああやこうやの話になることを望んでいたのかもしれない。
でも、私はそうはしなかった。
これまでと同じように「意を汲む」のは嫌だった。

6月。一度だけ、父から電話が入った。
「あのな、相続のことなんやけどな。それを相談したいんやけど。」開口一番に父はそう言った。
相続のこと? 私の心はかたくなになった。
「お父さん、お父さんの望むようにすればいい。私はお父さんの思うとおりでいい。」
そう答えたら、父は「なんや、怒ってるんか? …怒ってるんやったら、謝るがな。」と言った。

私は…最初の「なんや、怒ってるんか?」に反応してしまった。
鍵を返せとまで言ったのに、怒ってるんか? それはないでしょ!
私は「お父さんの好きなようにしたらいいから。」と言って、そのまま電話を切った。
「…怒ってるんやったら、謝るがな」が、その2週間後に亡くなった父の最後の言葉となった。


私の不調は、その夏の休暇から始まった。
9日間のお盆休みの間中、私はベッドから起き上がれなかった。

父の死に目に会えなかった。
けれどそれは、私の望んだことではなかったか?
3月の半ば。両親の家に降り立った私は、1月末から1ヶ月半ぶりに見る父の変わりように動揺していた。
父に死臭を感じた。
私は怖ろしかった。一瞬、自分に「大丈夫?」と問うた記憶がある。
不安をかき消すように、私はセラピー・ドッグを買い求めた、のかもしれない。

なんで亡くなってからでなく、亡くなる前に母は電話をくれなかったのか?
そう思ったけど、それは母を責めることになりそうで、それも言えなかった。

四十九日を過ぎて、母は言った。「お父さん、亡くなるなんて、思ったことなかった。…今も信じられへん。」
ああ、そうか、と思った。…母は意地悪をしたのでも、気が利かなかったのでもなく、父が死にゆくのを、認められなかっただけなんだ…。
父が死にゆくのを、耐えられるだろうか?と思った私と同じで。

母を責める気持ちはなくなったけど、今度は自分が許せなくなった。
「こころが痛い」を通り越して、身体が動かなくなった。

遺言状で、父は私に母のことを頼んでいた。
遺言の日付は、亡くなる3日前だった。

そんなこと言われても、ね、というのが、最初の気持ちだった。…できることとできないことがあるよ。
けれど1年後、私は奈良に帰ることを選択した。

お父さん。
小学校の同級生が見舞いに来たいと電話くれたのに、お母さんが断ってしまった。
女の人やから、焼き餅焼いたんやないかと思う、って私に言ったね?
会いたい人に会わせてあげるよ、車でこっそり連れて行ってあげる、って約束したね?
そばにおらんでいい、なんて言ったから、それもできなくなったじゃないか!
おバカさんだね、お父さんは。
…でも、私もおバカさんだったね。

今、お母さんと二人で暮らしてるよ。あ、アンジーもいるから二人じゃないか。
相変わらずわがままばっかりのお母さんだけど。
面倒見るから。お父さんは安心しててね。そして…いつか会ったら、褒めてね。

画像は、朝のアンジーとの散歩で見かけた、ご近所のハナミズキ。
…父はどこかで見守っていてくれている気がします。

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