3日目の午後は、二ノ滝寺(14番札所)桐生住職と、切幡寺(10番札所)藪住職を迎えてのオープンカウンセリングでした。
7名の参加者(相談者)が前日に募られ、応募者多数だったので(私も希望しました!)ジャンケンとなり、私は残念ながら見る側に。
おおよそ2時間半枠での開催でした。
4名の相談がされましたが、印象に残った最初と最後の方の「問いかけ」から、お二人のご住職がどのようなことを話されたのか、を中心にまとめたいと思います。
最初の方の第一声は「愛って何でしょうか? ここ2年ぐらい浮かんでいる言葉なんですが」。
藪住職
・愛はすべてプラスではない。憎悪に近いものも、盲目な場合もある。
・仏教でいえば「慈愛」が豊かな穏やかな愛。
・原子力と同じように、非常に強いがゆえに、使い方による。
・人が愛とどのように接していくか。それは「慈愛」に尽きるのだが、独りよがりの愛情表現になってないか、周囲がより豊かになっているかどうか、を見る。
・自分自身より年下の人が、自分をどう見ているかを考えてみる。
桐生住職
・あなたはどう答えますか? ー「それこそ、つながり、としか…」
・「慈悲」という言葉があるが、「慈」は慈しむこと。それは愛する、相手をよりよく理解すること。
・愛されるより愛せる人になってほしい。
・今のその笑顔を持っている自分を大事にしてほしい。
最後の方の相談は「世の中を見ると宗教によって戦争も引き起こされていて、そんな状況の中で祈ることしかできないのでしょうか?」。
藪住職
・生き残った人と祈ることしかできない。逆に生き残った人と祈ることはできる。
・同じ気持ちになることはできないけれど、共に涙を流すことはできる。
・遺された人たちの命を生かすために「祈り」の第一歩を踏み出すことはできる。
・事実として認めて、一歩踏み出すお手伝いを、祈りの中でさせていただく。
・それしかできないし、それができる。
・ふとした瞬間、解放されたように無条件に信じることがある。それが「帰依をする」こと。完全に自分をなげうってでも信じる時があるのも事実。
桐生住職
・「人に寄り添うことしかできない」を大事にしてほしい。
・「何もできない」のではなく、寄り添うことができている。
・神仏は信じられなくても愛は信じられる? しかし愛も裏切られる。
・究極は平和(ピース)。仏教の教えの中に、平和に繋がっていく処方箋があってそれを生きていく支えにしていく。
・お釈迦さんが言った「この世は苦である」がスタート。苦しい世の中を生きていくには「教え」が必要。自分にはこの「教え」が必要だと思えたら、それが信仰。
・「人は人によって生かされる」。力のある人が、ない人を、寄り添って引き上げてあげればよい。
・(相談者に)今まで生きててよかったね。これからも生きていこう! あるがまま、ないがまま。
相談者のありようを見ながらの応答だったと思います。
それはゲシュタルトの「いま、ここ」で、「我-汝」の関係と同じような気がしました。
ただ、ゲシュタルトはひたすら、ワーカーが自分の内部(自分の在り方)に突き進むのを促し、寄り添いますが、
仏教カウンセリングは、何というか…相談者の問いかけに対して、仏教の教えに基づいたこれまでのご自身の生き方を、相談者の前に引き出してこられるような感じを受けました。
単に「仏教の教え」ではなく、「仏教の教えに基づいたこれまでのご自身の生き方」であるからこそ、「慈愛」に満ちたもので。
その率直な在り方は、ロジャーズの言う「自己一致」にも通ずると思います。
そういった率直な在り方を目の前に差し出されたら、相談者にとっても自分の在り方を見直す契機となるのではないか…と思えたことでした。
だから、多分…直接か間接かの違いはあっても、「自分のありようを見つめ直す」点で、共通するのだと思い至りました。
私にとって、興味深い「気づき」でした。
画像は、2日目の「お遍路体験」でのお遍路道で見かけたお地蔵さん。
ちょっと前屈みで首をかしげていらっしゃいます。
仏教の教えも、人が介在して伝えられるのだ、としみじみ思います。