今年の10月は、これまでよくわからないでいたものが、急に明確な姿を現してきて。
なるほど、そういうことだったのか!と腑に落ちることが続いた。
ひとつ目が2025年10月11日(土)。
「ソマティック・ゲシュタルト」と銘打ったワークショップが大阪・吹田で開かれるというので。
一瞬、逡巡したものの、申し込むことにした。
何年かぶりに、百武さんの前に座りたくなったのだ。何のために? うーん。。
上手く説明できそうもなかったけど。積年の私の疑問に何らかの答えが出るかもしれない、と思ってのことだった。
「積年の私の疑問」? …そうね。私は割と早いうちから、何か釈然としないものを彼に感じていた。
それが何なのか、ずっと分からないでいたけれど。もしかすると、分かるかもしれない、そんな気がしたのだ。
久方ぶりに観る百ちゃんは。特に以前と変わらず。相変わらず飄々として見えた。
吹田駅に降り立つのが初めてで、ちょっと会場までを迷ってしまって。
せっかく間に合うように電車に乗ったハズが。電車を降りてからが、よく分からず。
最初のチェックイン開始に間に合わず。それだけでもう私は緊張してしまって。
開始から、よろしくはなかった。
私は。密かに連れてきていたアンジーに心慰められていて。
道に迷った時も、ワークショップに遅れて入室した時も。
午前は何事もなく終わり、昼休憩に入って何人かと一緒に昼食を取り。
午後の部はワークを受けたい人を募られて。
2、3人、受けたいと言った人のワークが終わり。
「他に?」と言われて一瞬迷ったものの手を挙げた。
私は抱っこ紐の中にいるアンジーを隠したまま、ワークを受けようと円陣の中央に出ていく。と、百ちゃんが、「それは、何?」と言う。
え? だって、今までもワーク受けるのに、アンジー連れてきていたよ。今更、聞くの? とびっくりする。
「え? あ、犬です。」
百ちゃんは、大きく目を見開き、怒った顔で言う。
「ワークに犬を連れてこないのは常識だろ?」
ああ、「常識」ね。そうか。ダメなんだ。せっかく来たけど、いたたまれなくてもう帰ろうと思う。
「あ、すみません。…どうしたら、いいですか?」
一瞬黙り込んだ百ちゃんは、「連れてきてしまったものを、どうしようもないだろう?」と言う。「置いて出てきて。」
私の膝の上にいたら、アンジーは不安がらないけど、と心配するけど、どうしようもない。アンジーの抱っこ紐を置いて、中央に出る。
案の定、アンジーが悲鳴のような声を上げる。ほら、見ろ、迷惑だろ? というように百ちゃんは私を見る。
私は一層いたたまれなくなる。鳴くアンジーを見て百ちゃんが言う。「なんて言ってるんだ?」
私は肩をすくめながら答える。「ママ、どこ? って言ってます。」仕方なく、私はアンジーに声を掛ける。
「アンジー、ママはここよ!」
異様な雰囲気を察知して、主催者がアンジーのところに行ってくれ、なだめてくれる。アンジーは鳴きやんだ。
「何で来たの?」唐突に百ちゃんが言う。「解決したい問題があって、それで来ました。」
2、3他のやり取りをして、再び百ちゃんが言う。「何で来たの?」「…だから、解決したい問題があったから。それで来ました。」
私は30になった息子とのやりとりを話しながら、これから生きていく場所が違って、私の人生にそれほど息子は関わってこない、ことは理解しているけど、もう少し、配慮・思いやりがあってもいいんじゃないか、と思ってしまうことを言う。
私が、10年前に奈良に帰ろうと思った時から。もう「広島での老後」という選択肢はない、と思っていることも。
百ちゃんは、30の息子が、もう少し親のことを考えるようになるには、20年掛かる、と言う。
それから。独り言をいうように、呟く。「子どもの代わりに犬を連れ回しているんだな。」
「百ちゃんに会うのが怖かった。」と私は言った。「それで、アンジーに一緒に来てもらった。」
そういうと。百ちゃんはモゴモゴと「怖いって…」と言った。
そうね。私は、ひとりで百ちゃんに対峙するのが、怖かった。
初めての場所を探すのも、不安だった。そんな時。アンジーがいてくれると、落ち着く。
アンジーが何かしてくれるわけではない。そうではなくて、アンジーがいるから、私、しっかりしなきゃ、と思うので。
守るべきものがいると、気持ちがシャンとする、感じ。
それから百ちゃんは、信じられないことを言った。「20年経ったら、もう一度、ワークしたげるよ」
私は耳を疑った。え? 20年後も、私、百ちゃんのワークを必要としているの?
…っていうか。百ちゃんは、20年後の私がまだ百ちゃんのワークを必要としていると思ってるんだ!
参加者から、どよめきの声が上がった。
自分の年齢を厭わず、20年後の私を思いやる百ちゃんに感動したかもしれない。
でも、私は違った。
百ちゃんは。成長して百ちゃんのワークを必要としない私を想定できない、んだね。
百ちゃんは。ワークを受ける人が成長して、もう自分のワークを必要としない、ことは想定外、なんだね。
それで。どこまでいっても百ちゃんとワークを受ける人(=クライエント)の関係は、揺るがないんだ、と思った。
その関係は「依存」を生む。
百ちゃんに出会ったのは2015年だけど。
百ちゃんの不思議な魅力に取り憑かれて。「追っかけ」をし始めた時期があった。最初の年。
だけど、翌年ぐらいに、あるワークショップに参加して。それはゲシュタルト初心者を対象としたようなものだったけど。
場違いのように、熟練者、のように見える女性がひとり、参加されていて。
百ちゃんのワークがを受けながら、涙ながらに、いろいろな感情を吐露して。
その姿が、あまりに痛々しくて。私は突然、彼の「追っかけ」をすることに恐怖を感じて。
「追っかけ」は止めよう、と思った。
その人とは後に、私がゲシュタルトのコース受講をしている講座でファシリテーターとして再会して。
何か。その人の秘密を知っているようで。とても居心地が悪かった。
私は、いわゆる「宗教二世」だったから。「個人崇拝」の呪縛から自分を解き放つのに20年掛かっていたから。
その時と同じような匂いがした、から。「追っかけ」をやめようと思ったのだった。
「ゲシュタルト(療法)」はスタッグ(行き詰まり)した状態を、「選択肢のある」状態に変える。
確かにそういうワークを沢山目にした。
魔法のようにそんな状態を生み出す百ちゃんは、カッコ良かった。
けれど、そんな百ちゃんが、なぜ「依存」を生み出しているのか?
それが疑問だった。ずっとずっと疑問だった。
ああ、なんだ。百ちゃんは、人が成長していくことを想定していないんだ。
でも、それはいったいなぜ?
…それは、人とどんなふうに関わっていくのか、によるのかもしれない。
「人を育てていく」という視点がないのかもしれない。
長年の懸案事項が解決して、もう私は「百ちゃん」に拘らなくていいんだ、と思った。
「さようなら、百ちゃん。」私は小さく呟いた。
画像は、ハロウイン仕様のアンジー。
「諦念」漂う雰囲気が、なんとも言えない。…こんな格好、決して望んでなかった、ね?