大阪・奈良 生駒駅徒歩6分の心理カウンセリングルーム
オンラインでも受けられます
教員歴31年の独自メソッドで、超短期で不登校、夫婦関係、親子関係、職場の人間関係などの悩みを解決
全く効果がなければ返金保証いたします
生駒市元町2-4-20
  1. コラム
  2. 沙羅 Sara の「ほっと一息」コラム
  3. 仏教の学び
  4. 無から生まれるものはなく、無に帰するものもない〜『ブッダの<呼吸>の瞑想』・お茶会〜
 

無から生まれるものはなく、無に帰するものもない〜『ブッダの<呼吸>の瞑想』・お茶会〜

2020/12/06
無から生まれるものはなく、無に帰するものもない〜『ブッダの<呼吸>の瞑想』・お茶会〜
12月4日金曜日。月に1回の「『ブッダの<呼吸>の瞑想』・お茶会」があって。
朝6時半から始まる「ズームでおはよう ブッダの呼吸の瞑想」でお世話になっている、
櫻井詢晃(さくらい じゅんこ)さんが主催されているもので。

アンジー連れて、ティク・ナット・ハンさんの『ブッダの<呼吸>の瞑想』を携えて、駆けつけたのでした。

うん。アンジーは、こんな時にはとても「おりこう」で。
抱っこ紐の中で、いい子にしている。
チャックを閉めれば、大抵は気づかれない。
けれど、お茶会に連れてきたのも何回目? なので、
しっかりと見つかって「ああ、よう来たね。」と声を掛けてもらい。

そうすると、クーンと、甘えた声を出す。

…存在を認められるのは、やっぱり犬でも嬉しい、か。



「今日は、どこを読みましょうか」という詢晃さんの声掛けで、ページを繰ってみる。

p.180辺りが気になって。そこは、「日常のなかで生かせる七つの瞑想法」という章立ての、「エクササイズ7」の途中で。

でも「エクササイズ7 すべての現象の本質(諸法実相)を深く見つめ、光を注ぐ」はp.162から始まって、p.199まであり。

p.180から読んでいくことになりました。


 相当の資産がなければ幸せにはなれないという思い込みから、人は富を求めます。
しかし資産家は、当の資産が人をどん底に落とすこともあると知っています。
富は幸福の条件ではありません。
お金があると、自分が強くなったように感じるかもしれません。
その全能感こそ、自我、差別、妄想、無智という観念と結びつきやすく、大きな苦しみのもとになりうるのです。
自分の欲や渇望の対象を深く見つめてみましょう。
それが求めるべき対象ではないことがわかってくるはずです。(p.180)

 死にたくはないし、苦しみたくもないのが人情です。
しかし、自分自身の欲によって、人は苦しみの手中に落ちるのです。
気づきと集中によって、欲の対象の本質を深く見つめましょう。
欲の正体がはっきりわかれば、もうそれを追い求めることはなくなります。
 プラスチックの擬似餌に喰いつく魚と、人間も似たり寄ったりのことをしています。
欲の対象は、私たちの眼には歪んで映っています。
それを手に入れなければ人生は意味を失い、幸せになれないと私たちは思い込みます。
幸せへの道は数えきれないほどあるのに、幸せがやって来る扉をどうしたら開けられるのか知らず、渇望の対象を追いかけているのです。
求めるものを追えば追うほど苦しむという現実を、多くの人が経験しているはずです。
 ブッダは、渇望の対象こそが幸福を授けてくれると思うのは、心が病んでいるのだと言います。
欲の対象は人のいのちを奪うことさえあります。
気づきの呼吸で欲の対象をじかに見つめ、深く観てください。
そのとおりにできれば、私たちは欲から解放され、これまでとは違うところーー「今ここ」に幸せを求めるようになるでしょう。(pp.181-182)


「渇望の対象こそが幸福を授けてくれると思うのは、心が病んでいる」。
それがなければならない。それさえあればいいのに。そんな風に思うものは「渇望の対象」なのだろう。

家があれば。そう思って、広島の高台のマンションに住み、戸建てに住み、したけれど。
ハードウエアを用意しても、そこでどんな生活を組み立てたいか、がない生活は、破綻する。のを経験した。
ハコモノを用意しても、内実がないと、空疎になる。

「欲の対象は人のいのちを奪うことさえあります」。
ああ、そうね。そうかもしれない。
ひらがなの「いのち」が、漢字にはないニュアンスで迫ってくる。…魂(たましい)であるかもしれない。


 苦しみからの脱出口は必ず見つかります。幸せを確かにつかむ道もあります。
それは、苦しみの本質を深く見抜くことです。苦しみの原因がはっきりわかれば、出口は見つかるのです。
 金剛経は、四つの観念(四相)を捨てるよう説いています。
まず、私はこの肉体であると思い込む「自己」の観念(我相)です。
あらゆる存在はそれ以外の要素で成り立っています。花は、種子、太陽、土、雨、その他の要素からできています。
 「あれがあるから、これがある。あなたがいなければ、私はいない」。
この真実と相容れない「私自身」という自己の観念を手放すことが、何より重要です。(p.183)


「『私自身』という自己の観念を手放す」!
学校教育に紛れ込んでいる西洋の知は、「自分とは何か」を追求させる方向で組み立てられていたのではなかったか?
日本の教育の歪みは、伝統的にあった「東洋の知」をかなぐり捨て、「西洋の知」もどきを追いかけ、
「自他の違い」を明確にするかのように見せかけながら、自我を主張しない「集団」に留まることを要求する、こんな不明瞭なことを続けてきたことに由来する。
二重三重の「拗れ」を、それとは認識しないまま子どもに押し付け、そのことに何の疑問も抱かない。
そこには何の哲学もない。

不充分な「自己追求」。の上に、自己の観念を手放すのは…と、ためらいを感じる、けれど。
それは浅薄な私の思い込みか?


 そのつぎが「人間」という観念(人相)です。この観念を手放すのはそれほど難しくないでしょう。
人間をよく見つめれば、人間と動物の共通の先祖が見えてきます。さらに深く観ていくと、植物や鉱物の先祖も見えるでしょう。
人間は、人間以外の要素でできています。
自分は、岩、河、雲、リスやバラでもあるということが見えます。
私たちが自分から人間以外の要素を取り去ったとしたら、自分も跡形もなく消え去るのです。
 これはディープ・エコロジーの深遠な教えです。人類を守るためには、人間以外の要素を守らなければなりません。
そうした要素こそ人類の先祖であり、それを壊せば私たちも存在しなくなるからです。
ここから、人間と自然とを別々に分ける見方が誤りであることがわかります。
人間は自然そのもので、自然と一体だという視点を持ちましょう。
いのちの調和と尊重は、この理解の上に初めて成り立ちます。(pp.184-185)

 第三の観念は「生き物」(衆生相)です。生き物と言うとき、そこには生物と無生物とを区別する意図が働いています。
生き物を深く見つめれば、無生物と呼ばれる要素が見えてきます。
深く観る瞑想によって、植物も鉱物も私たちと同じく生きていることがわかります。
ですから、人間と人間以外を隔てる境界は存在しないのです。(p.186)

 捨てるべき第四の観念は「寿命」(寿者相)です。
時間は直線的に進み、人はその線上のある地点で生まれ、ある地点で死ぬと一般には信じられています。
私たちはこの惑星上で、七十年、八十年、九十年、せいぜい百年過ごしたのち、どこかへ消え去ると考えます。
これは既成概念です。
深く見つめればそれがひとつの観念で、歪んだとらえ方だとわかるでしょう。
誕生は観念、死もまた観念です。それらは実在しません。
 雲の不死にはすでに触れました。雲は死にません。それは雨や雪に変わるだけです。
死とは何かが無になること、ここにいる人間が無に帰ること、私たちはそう考えています。
深く観る瞑想では、見えるものがまったく違います。雲の不死を見るのです。
紙を燃やすと、それは煙や熱や灰に変わります。紙が無に帰すことはありません。
消滅という考えは、考えでしかないのです。私たちは、何ひとつとして消し去ることはできません。
 深く見つめれば、雲には不生の本質が備わっているとわかります。
雲は無から生まれたわけではありません。河の水や海から来たのです。また、太陽光の熱からも来ています。
「雲が生まれる」という言葉は、確かに詩的なイメージですが、じつのところ、雲とは新しい現われ方のひとつにすぎません。
雲になる前に、それはいろいろな存在だったのです。(pp.187-188)


雲のたとえはわかりやすい。見えている形を変えるだけで、無くなりはしない、というのが。
雲が雲でなくなって、雨や雪に変わることを「雲の死」と言えなくもないけれど、それは「相」が変わるだけである、という。
存在が無くなったわけではない、と。


 私たちの本質は、生と死を超えています。生や死という観念と存在の世界とは相容れません。
無から生まれるものはなく、無に帰するものもないからです。
深く観る「観」の瞑想は、本質を観る目を養います。恐れと絶望はそれによって消し去られるのです。
 金剛経で説かれているこうした四つの観念は、恐れ、絶望、苦しみのもとになっています。
金剛経が教えるのは、観の瞑想によって、これらを手放すことです。固定観念、我見を捨てる練習は何より大切です。
この「放棄(放下ほうげ)」の実践なしには、真の解放、心の自由はありえません。
さまざまな思いに耽ることが止められず、私たちは苦しみを深めます。
こうした思いから自由になるために、瞑想が役立つのです。(pp.188-189)


「無から生まれるものはなく、無に帰するものもない」。
そうか。死も生の「相」を変えた形でしかない、と。
確かに。そうとわかれば、不安は消える。

執着から離れ、ここにいること。
私に必要なものは、やってくるし、やってこないものは私に必要ではなかったもの。

今、必要であるものもずっと必要かどうか、わからない。
今、必要でなかったものが、先も必要でないかどうか、もわからない。

いろんな思いが巡り、豊かな「お茶会」が終わりました。

画像は、詢晃さんお手製のチキンスモークのチップ。美味しかったです。

カウンセリングルーム 沙羅Sara

あなたはあなたのままで大丈夫。ひとりで悩みを抱え込まないで。

明けない夜はありません。

電話番号:090-7594-0428

所在地 : 生駒市元町2-4-20 

営業時間:10:00〜19:00

定休日 :不定休

ルーム案内・アクセスはこちら