大阪・奈良 生駒駅徒歩6分の心理カウンセリングルーム
オンラインでも受けられます
教員歴31年の独自メソッドで、超短期で不登校、夫婦関係、親子関係、職場の人間関係などの悩みを解決
全く効果がなければ返金保証いたします
生駒市元町2-4-20
  1. コラム
  2. 沙羅 Sara の「ほっと一息」コラム
 

沙羅 Sara の「ほっと一息」コラム

沙羅 Sara の「ほっと一息」コラム
日々の暮らしの中で、ちょっと気づいたこと、ほっと一息つけるようなことがらをコラムとしてまとめました。
あなたの「お役立ち」になるかどうか、心許ないですが、興味を持った「カテゴリー」から読んでみてくださいね。

カテゴリーごとに選べます。
選択
言葉
2017/02/04
霞たち木の芽もはるの雪降れば  
節分の翌日が立春です。この日から「春」とされるのですが、寒くてなかなか春の訪れは感じられません。立春の歌ではないのですが、「古今和歌集」から私の好きな春の歌を。

    雪の降りけるを よめる      紀貫之  (春上9)
 霞たち木の芽もはるの雪降れば 花なき里も花ぞ散りける

「雪の降りけるを よめる」というのは詞書き(ことばがき)といって、作歌状況やテーマなどを説明したものです。「はる」は掛詞(かけことば)で、「木の芽が張る」と「春の雪」の2つの意味を掛けています。「霞たち木の芽も」は「春」を導くための序詞(じょことば)です。現代語訳すると、

 霞がかって、木の芽もふっくら芽吹く春、そんな春に雪が降るので、まだ花が咲かない里にも、花が散るように見えることだよ

というようなところですか。雪を花に見立てる、「見立て」の技法も使われています。…文法事項として、「降れば」は「降る」の已然形+助詞の「ば」で、確定条件(〜なので、と訳す)というようなことがあります。「ぞ〜ける」は「係り結び」といって、「けり」が「連体形」の「ける」になり、強調表現を表します。「けり」の意味は「過去」ではなく、「〜だなあ」という「詠嘆(えいたん)」です。

…なんだか古典の授業のようで、頭が痛くなった方は読み飛ばしてくださいね。

雪を花に見立てるなんて、無理がある、不自然だと、後世、「写実主義」を唱えた正岡子規に古今和歌集は否定されました。でも、2日ほど前、朝、アンジーの散歩で外に出たら、ちらちらと雪が舞って、それがなんともかわいい感じで、本当に小さな花びらが舞っているように見えました。

春先、ちらつく雪を花に見立てるのは、春を待ち望む気持ちの表れかもしれません。

そう考えると、何も目に見えるものを写し取るのが「写実」ではなく、心に見えるものを写し取ってもいいのかもしれない。いやむしろ、心に見えるものを大切にした方がいいのではないか…。『星の王子さま』にも「大切なものは目に見えないんだよ」とあったような…。

そんなことをつらつら考えた今朝でした。

母との暮らし
2017/02/03
節分の日  
今日2月3日は節分、豆まきですね。母は今日までに、いそいそと豆やらを用意して、それはいいのですが、豆には鬼の面がおまけについてきて。そのお面で、母は杏樹(アンジー)で(!)遊ぶのです。(アンジーと遊ぶのではなく。)

「アンジー!」と呼んだかと思うとさっと鬼の面を取りだし被るものだから、アンジーが怖がって「うおん、うおん…」いいながら後ずさりして逃げていきます。それを見て母は面を外し、「アンジー、ばあちゃんだよ、鬼じゃないよ。」と大笑いするのです。この2〜3日。

「ばあちゃん、それはいじめだよ(怒)!」と言うのですが、なかなか止めません。ホントにまあ、子どもなんだから!

また、母はおやつとしてミルク風味のガム(骨のように両端をねじったもの)をあげるのですが、アンジーはそのガムを口で放り投げて十分遊んでからゆっくり食べ始めます。時にはテーブルなどの下にガムが入り込むことがあって、どうやってもアンジーの手では取れないことがあります。そうすると、一生懸命、「ここだよ!ここにあるんだけど、取ってよ!」と言いに来ます。(時にはそれが、ボールの時もあります。)母は長い1メートルぐらいの竹差しを持ってきて、なかなか取れないふりをします。「アンジー、もうちょっとなんやけど、難しいわ…」とかなんとか言いながら、じらします。アンジーも心配そうに、ものが滑り込んだ先と、母の顔を交互に見ています。そのうち母が竹差しで出してやり、「アンジー、やっと取れたわ」などと言います。

なんで、すぐに取ってやらないのか? と聞くと「私もちょっと、楽しみたいやん。なかなか取れんのが、やっと取れたら、アンジーものすごく感謝してペロペロなめるんよ。」

私はものすごく不愉快になります。…多分「あんたのために頑張ってるんよ」が嫌なんだと思います。

「『あなたのため』は『お為ごかし』で本当は言ってる本人のため」と私は昔から思ってきました。母があまりにも「おまえのために〜」と言い過ぎたので。学校に勤めていた時も「生徒のため」という言葉が嫌いでした。だから私は誰かに「あなたのため」と言ったことはありません。自分が言われて苦しい思いをしてきたので。言ったとしてもせいぜい「私はこうした方がいいと思うけど…、」です。そして「自分で決めてね」を付け加えます。

今日になって、母は「もうアンジー、怖がらさんとくわ。かわいそうやもんね。」と言い出しました。やれやれ、ほっとしながら、一方で、母がアンジーをからかっているだけで、私は何もこんなに反応しなくていいのに…とも思いました。「過剰反応だわ」と。まあ…私のインナーチャイルドが反応したんですね。アンジーを抱き上げながら「大丈夫だからね。何も怖いことないよ。」と、よしよししながら、私の心のザワザワも落ち着いていきました。

詩の世界
2017/02/01
口から白い火を吐く怪獣〜栗原俊の詩「如月」〜  
2月になりましたね。毎日々、本当に寒いです。2月の異名である「如月(きさらぎ)」は「着更着」(=着物の上に更に着重ねする)が語源か?と言われています。
今日は「如月」と題された詩を取り上げたいと思います。「読書への誘い」の第31号で紹介したものです。
続き
アンジーとの暮らし
2017/01/31
ワンコに服を着せるべきか?  
朝夕、杏樹(アンジー)を連れて散歩をしていると、色とりどりの「お洋服」を着たワンコに出会います。私がアンジーに服を着せないのは、石垣りんの「着物」という詩に、昔、なるほど!と思った記憶があるからです。


       「着物」         石垣りん

犬に着物をきせるのは
よいことではありません。

犬に着物をきせるのは
わるいことでもありません。

犬に着物をきせるのは
さしあたってコッケイです。

人間が着物をきることは
コッケイではありません。

古い習慣
古い歴史

人間が犬に着物をきせたとき
はじめて着物が見えてくる
着せきれない部分が見えてくる。

からだに合わせてこしらえた
合わせきれない獣(けもの)のつじつま。

そのオカシサの首に鎖をつけて
気どりながら
引かれてゆくのは人間です。  (『空をかついで』童話屋1996年刊)


アンジーが赤ちゃんの頃、ちゃんと躾をしようとゲージに寝場所作って、別の部屋で寝かせていました。ところが、父が亡くなって、ストンと落ち込んだ私のところに来て、夜、ベッドに潜り込んできた時、心弱くなっていたせいで、「ダメだよ」と追い出すことができませんでした。

それ以来、私のベッドに潜り込むのが当たり前になってしまい、私も気づけばアンジーの背中をトントンしている始末。

そのせいなのかどうか、えらく寒がりで、雨も雪も嫌いで、寒い冬の朝などはブルブル震えて「…行かなきゃダメ?」と上目遣いで私の顔を見るのです。…家のトイレシートで出来ないくせに。

母は他のワンコが暖かそうにしているのを見て、「アンジーにも買ってやりよ」と言います。かつて石垣りんの詩に共鳴した私としては、そんな節操のないことは出来ません。…母には言っていませんが。それで「私が買ってやろうか?」とまで言います。「いや、いい」と言いながら、寒そうにしているアンジーを見て、自分はコートを着ていることにだんだん負い目を感じ始めています。…いかんいかん、犬には汗腺がないんだから、それに自前の毛皮を着てるんだから、と自分に言い聞かせてたりするのです。

いつまで持つか?  …アンジー、お前が老犬になったら、ママ考えるね。

子育て
2017/01/30
子育ての「失敗」?  
昨日は「一般社団法人 なら人材育成協会」主催の「不登校・ひきこもり親子セミナー」に参加しました。画像は、お話しくださった臨床心理士の中東照幸さんが提示された、パワーポイントの一枚です。「子どもと親の境界線」と題された、「すれ違いタイプ」と「混じり合いタイプ」。ありがちな親子関係です。そして、このいずれの状態も、親子関係がうまくいきません。

「すれ違いタイプ」では、子どもが親から見放されたように感じます。
「混じり合いタイプ」では、子どもは自分が何を望んでいるのかわからないままだし、親は子どものためと思いながら自分の考えを押しつけていたり、子どもに決めさせなければならないところにまで踏み込んでしまって、子どもの「自己決定」を奪います。子どもの自己決定を奪ってはならないのは、うまくいかなかったときに「母さんがそうしろと言ったから…」と逃げ場を作ってしまうからです。

逃げ場が必要なときは、もちろんあります。しかし、こういう「逃げ場」を作ってしまうと自分の人生に責任を持たず、悪いことは全部人のせいにするようになります。その状態は、本人にとって楽なようでいて、ある意味、不幸です。それは、自分の人生に対する責任は誰も取ってくれないことに、いずれ気づかざるを得ないからです。当たり前といえば当たり前のことですけど。そのことに気づくのに遅くなるだけ、不幸だと私は思うのです。

フリートークの時間、「なら人材育成協会」のスタッフとして関わっている大学生の人たちを前に、「私が今、関心あるのは、不登校やひきこもりを経験した子どもたちが、立ち直ったとして、その先どういう支援が必要なのか、ということ。やはり、そういう経験をせざるを得なかったのは、何かこう、人間関係の作り方がうまくなかったり、自分の感情をうまく処理できなかったり、ということがあるように思えて。今まさに自分自身の問題として、我が子の今後を考えるのに、何が必要か、何をしてはいけないのか、手探り状態だから。」という話をしました。皆、不登校やひきこもり経験のある人たちでしたので、うんうんと頷いてくれました。

さっきの図で言えば、二つの円は離れていても交わっていてもいけないのですね。ちょうど一点で接しているような状態が望ましいわけなんですが、なかなかその状態を作るのが難しい…。

子どもが不登校になったり引きこもったりすると、つい「私の子育ての失敗?」とお母さんたちは思ってしまいがちです。けれど、誰でしたっけ?(エジソンは「失敗は成功の母」という言葉で有名ですが)、「私には失敗というものがない。なぜなら、あきらめない限り、次へのステップだから。」という言葉。そうです。あきらめなければ、「失敗」ではないのです。まだ「途上」だということです。そして、母はあきらめるわけにはいかないのです。10ヶ月間自分のお腹で育て、そして、お乳をやり、おしめを替え、育ててきたんですから。言葉をかけ、微笑んであやし、抱っこしてきたんですから。頭では別人格と分かっていても、どこかまだ「へその緒」がつながっている。子どもが怪我すると自分の身体が、心が、痛む。どうしようもないです。どうしようもない。そう感じてしまうのですから。

だからこそ、「混じり合い」になって、子どもを呑み込んではいけないのです。

私もまだ子育ての途上です。あまり偉そうなことは言えません。でも、幼児、小中高校生のお母さんたちより少し先輩です。その分、分かることもあります。だから何でも相談してくださいな。一緒に子育て(そして、お母さん自身の「自分育て」)をしていきましょう。
<<  <  134  135  136  >  >>

カウンセリングルーム 沙羅Sara

あなたはあなたのままで大丈夫。ひとりで悩みを抱え込まないで。

明けない夜はありません。

電話番号:090-7594-0428

所在地 : 生駒市元町2-4-20 

営業時間:10:00〜19:00

定休日 :不定休

ルーム案内・アクセスはこちら