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  1. コラム
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沙羅 Sara の「ほっと一息」コラム

沙羅 Sara の「ほっと一息」コラム
日々の暮らしの中で、ちょっと気づいたこと、ほっと一息つけるようなことがらをコラムとしてまとめました。
あなたの「お役立ち」になるかどうか、心許ないですが、興味を持った「カテゴリー」から読んでみてくださいね。

カテゴリーごとに選べます。
選択
仏教の学び
2022/04/02
理解は心を解放する〜『ブッダの<呼吸>の瞑想』ゆるゆるお茶会〜  
4月1日。
街路樹の桜も満開で。
晴れた空の下、車を東に走らせる。
外環(状線)と呼ばれる道路はアップダウンの激しい道。
緩やかに降りたり登ったりしながら、心弾ませる。
今日は、月一度のお茶会の日。

いつものように、最初にタロットカードを引いてチェックイン。

今日の私は大アルカナの「2 女教皇」だった。

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フォーカシング
2022/04/01
私のフォーカシング・レッスン(4)〜可能性としての「クリアリング・ア・スペース」〜池見陽先生のエイジアン・フォーカシング・メソッヅ〈2〉  

池見陽先生の「Asian Focusing Methods」セミナーの続きです。

 

 

「クリアリング・ア・スペース」

・6つのステップはどんなものか、というのがここに出ているが、ここでジェンドリンの「体験過程理論」で扱っているのは2番目の「フェルトセンス」以降。そこに、「言葉にならない体験」を「フェルトセンス」として、それを表現する言葉を「ハンドル表現」として、一体それは何を伝えているんだろう、何を必要としているんだろう、この感じには何があるだろう、とかそういうことを考えていく、というサイクルがある。これがフォーカシングの中心部分。

・ジェンドリンはどこからか「クリアリング・ア・スペース」という一番目のステップを持ってきた。これは非常に不思議。不思議というのは、本を書く前に論文で発表していることが一般的(そして2から先の「体験過程」のプロセスはたくさん論文がある)。「クリアリング・ア・スペース」については何の論文もなく、いきなり本に登場する。

・しかも、読んでいると、(これは)かなりこなれているやり方。

・ここはフォーカシングの本体部分と異色であって、たとえばフォーカシング指導者のアン・ワイザー・コーネルは、1番目は削除して、本体部分とあまりに違うから、ということでやらない。

・これは一体何かというと、セッションを始める前に、今自分はどんなことが気になっているのか、今どんなことを感じているのか、たとえば、面接に来たクライエントが、話したい話題があって来ているが、来る途中で電車に遅れたことでドキドキしている、そして1日のスケジュールが狂ったことにイライラしている、そういう気持ちを持って来てしまっているので、ちょっとイライラを横に置いといて、その他にどんな気持ちがあるのか、一旦、前に並べて、それらからちょっと距離を置いて、そこから一つ気がかりを選んで進んでいきましょう、とこういうようなステップ。

・おそらくこれは現象学の「エポケー」みたいな意味があるんだろうと思うが、しかし、理論の説明はなく「クリアリング・ア・スペース」が紹介されている。

・日本にこれが入って来たときに、ここが一番、日本人には分かりやすかった部分がある。

                                                                   
※エポケー…エポケーは現象学の用語で、判断中止の意味。事実についての判断を差し控え、事実をあるがままに受け入れることをいう。フッサールママ)世界がそれ自体で実在するという日常的な自然的態度を反省し、世界の実在についての判断を括弧に入れて停止し、自我の純粋な意識の領域を取り出す方法論。
古代の懐疑主義者ピュロンは、ものごとを見あやまる誤謬の根源は「・・・である」と断定してしまう判断(エポケー)にあり、人間の心の動揺もそこから生まれてくると考えた。誤謬を避けて心の平静を保つためには、何ごとについても判断をさしひかえなければならない。ピュロンは「いかに生きるべきか」という意味合いが強かったが、フッサールはここから着想を得た。
フッサールはピュロンの懐疑論を借りて現象学的考察の基本方法においた。日常生活において自明なことのように思われている事実も誤謬が生まれるかもしれない。フッサールは、世界とその中にある存在者は、自分の経験にかかわりなく、それ自体で存在しているということでさえ、あえて反省の目を向け、エポケー(判断中止)することから、その思索を始めた。
フッサールは、事実を無批判に断定してしまう態度を自然的態度とよぶ。日常生活において暗黙のうちに前提されているこの態度を主題化し、哲学的な反省を加えるためには、自然的態度をいったん留保して、そこから距離をとらねばならない。このような意図のために方法上の手続きとして現象学的エポケーを用いた。 (Hitopediahttps://hitopedia.net › 人文科学)
 
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フォーカシング
2022/04/01
私のフォーカシング・レッスン(4)〜フォーカシングとは言葉にしていく過程での意味の形成〜池見陽先生のエイジアン・フォーカシング・メソッヅ〈1〉  
2022年3月19日。オンラインでのセミナー。
セミナーがあることに気づくのが遅くて、申し込みがギリギリになったこともあって、ろくに案内も読まずに申し込んだものだから。
…「エイジアン・フォーカシング」って何? ということも理解しないままで。
勝手に「age」(年齢)に関係するのかな? なんてぼんやり考えていただけで、セミナー当日を迎えてしまった。

今回、「Asian Focusing  Methods」と池見先生の命名されたものについて、話された言葉を拾っていきます。(小見出しは私がつけたもの)

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ゲシュタルト療法
2021/12/27
ゲシュタルトセラピー ワークについての覚え書き(2)〜現象学からの視点〜  

百武さんのワークショップにゲストとして来られた三村尚彦先生。

ワークをご覧になっての感想及び質問、それから現象学は何を明らかにしていこうとするものなのか、の言及が非常に興味深かったので、言葉を拾っておこうと思います。(小見出しは、私が勝手につけたものです。)

 

・僕の関心事から、百武さんと皆さんのワーク、やりとりを見させていただいて、興味深かったのは、…というか、逆に皆さんに伺いたいなあと思ったのは、メタファー、たとえ。

 

認知神経リハビリテーションにおけるボディイメージ回復の方法としてのメタファー

・フォーカシングでもそうだし、あるいは現象学の話でもそうで、今、僕が一番、力を入れているのが、「認知神経リハビリテーション」っていって、脳卒中とかで固まりになった方のリハビリテーション。日本では「運動療法」が主流なんですよね。要は麻痺で動かなくなった人、自分でコントロールできなくなった人に、他の部位を、簡単にいうと、筋トレみたいなことをすることで対応しようとするものですね。で、これは「therapy of exercise」、本来だったら「治療的訓練」と訳さなきゃならないところ、日本は「運動療法」と訳したので、割と、…簡単に言うと筋トレ系で、片っぽ動かないけど、もう片っぽを強くすれば、なんかその物事に対応できるようになるよね、という形なんですよ。

・ところが、「認知神経リハビリテーション」っていうのは、イタリアの神経内科医のカルロフェルベッティという人が、現象学とか哲学からのヒントを得て、要は、麻痺を起こした人って、自分の身体を自分の身体として認識したりイメージできなくなっているんですよね。だから、これ自分の腕だと思わなくなっているので、たとえば「自分の腕を冷蔵庫に忘れてきた」と言い出したりするんですよ。家族はそうすると「ああ、うちのおじいちゃん(または、お母ちゃん)は、脳卒中で麻痺を起こして、それでなんか認知症の症状で、おかしな発言をするようになったんだ、というふうになるんですけど、でも実際には違って、本当に物体みたいにしか思えないので、だから、たとえば、さっき冷蔵庫で見た、今、ここに腕があっても、これは自分の腕だというふうに認識がない、ボディイメージが完全に崩壊しているので、腕がない、という状態なんですよね。

続き
ゲシュタルト療法
2021/11/18
ゲシュタルトセラピー ワークについての覚え書き(1)〜感覚(身体)と思考の境目〜  
ゲシュタルト療法・百武正嗣さんのワークショップに参加したときに、フッサール現象学がご専門の三村尚彦先生が来られて。
それは、主催者がお呼びした、ということで。

関西大学にお勤めで、フォーカシングの池見陽さんの同僚。

フォーカシング創始者ジェンドリンについて話された言葉を拾っていきます。


・池見先生との関係から、2008年ぐらいからジェンドリンについて調べ始めた。
・ジェンドリンという人は、圧倒的にフォーカシングという業績でアメリカの心理学会からも高く評価されている方だが、ご本人は一貫して「自分は哲学者だ」とかなり強く言っていた、と聞いている。
・実際、彼の業績も、単純に数だけ比べれば、哲学の論文の方が多い。
・多くの人は皆、ジェンドリンのフォーカシング指向心理療法(=フォーカシング)が素晴らしいので、ジェンドリンという人は、著名なロジャース派の心理療法家だという認識をしている。
・僕自身は、彼の哲学が、フォーカシングという業績から切り離しても、十分なポテンシャルとか可能性を持っている、と思っている。
・なかなか哲学の人間は、心理学の人が言っているのだったら哲学の応用だよね、という感じで、あまりその哲学の純粋な理論に関して関心を示さないというところがあるので、僕はそういう意味ではあえて(フォーカシングを)やらない。
・これは結構意図的で、おそらくジェンドリンの哲学について語る人はあまりいないと思うが、(ジェンドリンを語る)大抵の人はフォーカシングをやっている。
・それで、フォーカシングというのは素晴らしいからこういう哲学がある、という感じだが、でも僕はフォーカシングというのは別に特定のカウンセリングや療法でやるものではなく、日常生活の中でいつも身体の感じというものに触れながら、僕らは生きている、という感じ。
・(フォーカシングは)ある意味、非常に日常的な態度。
・哲学というのは、あたりまえとか、それ普通だよねとか、僕らの日常だよね、というのをもう一回問い直して何かに気づくっていうのが哲学だ、というふうに思っている。


その後、ワークについての質問タイムで、私は百武さんに「思考と感情の明確な違い」について質問した。
それは、11月4日の「対話deナイト」で出されたJさんの疑問(=思考と感情と、明確な線引きってあるんだろうか?)が、私の中で「私の疑問」として息づいていて。
とつとつと私は言葉をつないだ。

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