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  1. コラム
  2. 沙羅 Sara の「ほっと一息」コラム
  3. フォーカシング
 

沙羅 Sara の「ほっと一息」コラム

沙羅 Sara の「ほっと一息」コラム
日々の暮らしの中で、ちょっと気づいたこと、ほっと一息つけるようなことがらをコラムとしてまとめました。
あなたの「お役立ち」になるかどうか、心許ないですが、興味を持った「カテゴリー」から読んでみてくださいね。

カテゴリーごとに選べます。
選択
フォーカシング
2018/04/09
私のフォーカシング・レッスン(3)〜池見陽さんのフォーカシングワークショップ(1)〜  
昨日は、関西カウンセリングセンターで、「池見陽先生のフォーカシングワークショップ」がありました。
「一日(6時間)かけてフォーカシングの基礎から実際のデモンストレーションまで」という触れ込みでした。

池見陽さんのメッセージがチラシに掲げてありました。
【カール・ロジャーズとともに心理療法の研究に従事していた哲学者ユージン・ジェンドリンは、カウンセリングで成功しているクライエントの体験の仕方を紐解いてきました。そして、その体験の仕方を「フォーカシング」を名付けました。
 フォーカシングは心理療法の場でクライエントがしている「内なる行為」ですが、実はそれはあらゆる創造的な発想を支える人間の体験のあり方なのです。
 当日は、基礎から「フォーカシングと呼ばれている体験のあり方」を講義や体験学習やデモンストレーションを通して、お示しすることができれば幸いです。】

本来は3日間のワークショップの内容であるとおっしゃっていました。
(実際に、同じ内容で7月に、オーストラリアで3日間のワークショップをされるそうです。)
それを6時間で、ということで、80分×4の「コンテンツ」が用意されていました。

カール・ロジャーズ(1902ー1987)…ジェンドリンとともに「パーソン・センタード・アプローチ」を創立
ユージン・ジェンドリン(1926ー2017)…哲学者(現象学)
 ・ウィーンの生まれ。ナチスから逃れ、1938年4月、ウィーンを出てアメリカに移住。
  (2018・5・2にウィーンでジェンドリンのプレート(碑)が建てられる、ということでした。)
 ・亡くなってからジェンドリンの本が2冊出た。
 ・「人の体験と象徴化の過程」を研究した。(「象徴化」とは言葉にすること)
 ・進学したシカゴ大学に、カール・ロジャーズがいた。哲学科の修士課程にいたジェンドリンがロジャーズの門を叩いたのは1953年。
 ・ロジャーズは時々ジェンドリンを自分の講演に連れて行った。それは、難解な質問が出たときに、代わりにジェンドリンに答えさせるため。実際、70年代のロジャーズはジェンドリンの理論を取り込んでいる。

今回、原文引用されたのはバンダム社の『FOCUSING』。
続き
フォーカシング
2018/03/02
私のフォーカシング・レッスン(2)〜池見陽さんのKSCC統合的心理療法セミナー・講義  
2017年12月10日にKSCC統合的心理療法セミナーで、池見陽さんの講義がありました。
昨日は大阪に出る用事があったので、午前中に「関西カウンセリングセンター」に寄って、音声でその講義を聴きました。
「私の心理療法…」と題された1時間45分の講義内容をまとめておきたいと思います。
続き
フォーカシング
2017/08/03
私のフォーカシング・レッスン〜池見陽氏のワークショップ〜(5)  
2日目の、今回のワークショップとしては2回目のデモ・セッションがあり、シェアの時間の後、「フェルトセンスと感情の見分け方」の話がありました。
「怒り」は「怒り」のまま変化せず、「怒り」などの明確な言葉になっている。つまり、「感情」は単一焦点的なのだ、と。
それに対して、「フェルトセンス」は変わっていく。「怒り」と表現されていたものが「火山」になったり、「死火山ではなく休火山だった…活動するとは全然思っていなかったのに…」と表現されたり。

…今、打っていて、「フェルトセンス」は表現しにくいから、譬えになったりもするんだと気づきました。
一言で言い表せないような微細な感覚を、なんとか既存の言葉で表現しようとするから、譬えで描写するしかないことも多いのですね。
そのものとのキョリがある程度取れていないと、フェルトセンスにはならない、とまとめられました。

先ほどの「死火山ではなく…」はデモ・セッションでのフォーカサーの言葉なのですが、池見さんは、シェアの時に「(それを聞いて)脳細胞が興奮した…おお、まさしく『推進された“だった”』だ!と…」と言われていました。
体験過程で、「今の気づき」が「休火山だった」んだ…というように「過去を変えた」のですね。

30分ずつ各自でフォーカシングをするペア・ワークの後、「感情というのは、フォーカシングではどういう位置付けにあるのか?」という質問が出されました。

暫く考えた後、池見さんは「生きるプロセスの取り残された一部」と答えられました。
たとえば「怒り」は、本当は◯◯さんに理解してほしいのに、そうではない時に湧き上がってくる感情だったりして、それはその人ともっと豊かな関係を築く契機となったりする、と。
「有機体が語る語」という比喩もある、と。
あるいは、『セラピープロセスの小さな一歩』というジェンドリンの著作には「感情は相互作用を狭窄(きょうさく=せばめる)する」とある、とも。

池見さんから、たくさんのものが引き出せた、「いい質問」だったなあと思いました。

さて。残り2時間、となった時点で、デモ・セッションはあと一人、となって。
「セッションを受けたい人」に手を挙げたのは5、6人。公平にじゃんけんして、最後、二人となりました。
ああ!じゃんけんに勝てるかな? と思ったのですが、相手の方が私に譲ってくれました。(後で聞いたら、「気迫負け」したとのこと。…スミマセン…、私、必死の形相だったのかしら…)

「観我フォーカシング」をしましょう、と言われました。
これはある朝、池見さんが瞑想されている時に、ふと思いつかれたものだそうで。
自分のいろんなものを感じている部分に、感謝したり慈悲を送ったりするもの、だそうです。

私はまず、母が浮かびました。それから、その母に対している自分。それから、子ども。それから杏樹(アンジー)。
母に対している自分が「どんな様子をしているか」と言われて、…瞬時に、口をへの字にして、右足首を内側に折り曲げて、着物を着せられて突っ立っている3、4歳の女の子が出てきました。
ああ!と私の口から声が上がりました。
「これは私のインナーチャイルド!…やっぱり出てきたね…」
馴染みを紹介するように池見さんに描写して、…そうそう、母と対していると私のインナーチャイルドが刺激されるんだわ、と自分で確認していました。

池見さんは、フォーカシングでは用いない「ザブトンを置く」ことを、私には勧められたので、(ザブトンを置くということは、そこに、該当する人を置くことなので)イメージし易かった、と思います。
(後で、なぜザブトンを用いたかの質問には、ゲシュタルトをやってる人はザブトンは使い慣れているだろうから、ということでした。)
母や子どもや、それらとのキョリ感も、私がザブトン置く位置で、池見さん自身視覚的に捕らえられた、と思います。

母とのあれこれ、私の中に生まれる葛藤…そんなことをつらつら話しました。
すると…池見さんは、「では、それに『慈悲』を送りましょう」と声を掛けられました。

「私が健やかで幸せでありますように。
私が苦しみから解放されますように…。」

「慈悲の言葉」はこういう言葉なのですが、実はこの言葉は、私は馴染みがありました。
いつだったか…10年ぐらい前に、アルボムッレ・スマナサーラというスリランカ仏教界長老の著書『自分を変える気づきの瞑想法』の中で出会った言葉でした。でもこれは「グィパッサナー瞑想法」の2、3千年前からの「慈しみの言葉」なのですね。

その言葉を何回か繰り返しているうちに、私はじんわり涙が出てきました。
が、なんだかフォーカシングはワアワア泣いてはいけない気がして、静かに留めていました。
そして、母へのざわざわ感は、次第に収まっていきました。

私の中にある、様々な感情。
それら全てを引っくるめて、「健やかで幸せでありますように」「苦しみから解放されますように」。
これは、「祈り」の言葉ですね。
万事手を尽くして、それでもどうにもならない時には、祈るしかない、と思う時があります。
祈りは、「困った時の神頼み」というような安易なものではなく、切実な願い、である気がします。

「慈悲の言葉」を繰り返しながら、「…そうよね…。出来るだけのことはしているよねえ…頑張ってやってるよねえ…私。それでも上手くいかないのなら、それはもう神さまにでも仏さまにでも、お願いするほか手がないよねえ…。」なんて、自分を認めつつ、あとは委ねる気持ちになっていました。
…これが心を穏やかに、心に平安をもたらすのでしょうか…?

心穏やかになった状態で、私の「観我フォーカシング」は終わりました。

時折、池見さんの方を見ると、目を閉じていらっしゃること2回ほど。
でも、セッションに参加していた人からすると、ほとんど目を閉じていらっしゃることがなかったそうです。
…とすると、稀な瞬間にコミットしたのでしょうか?

池見さんは穏やかで…私が自由にあれこれワークするのを一緒にその場にいてくれた、ような感じ。
「慈悲」を送る声掛けも、絶妙なタイミングだった…気がする。
母に対する感情、それに反応する私自身に対する苛立たしさ、に入る前の、クールダウンさせるかのようなタイミングで。

「寄り添う」ってこういう風なのをいうのですね。
微細な私の心の動きを感じ取って、必要なものを必要なタイミングで差し出す。
それでいて、自分に無理がない状態でいること。
確かに。毎朝の瞑想は必要だわ。
ワークショップがその関係で午後からになっても、仕方のないことだったんだ…。

あっという間の2日間でした。ですが、とても濃密な時間でした。
1年半前の私の「未完了の問題(unfinished work)は、完了しました。

画像は、最近「先生、結婚したよ〜」と幸せそうな写真を送ってきてくれた教え子に送った、お祝いのプリザーブドフラワー。

フォーカシング
2017/08/02
私のフォーカシング・レッスン〜池見陽氏のワークショップ〜(4)  
最初のセッションの後、「クリアリング ア スペース」の説明がありました。
「クリアリング ア スペース」とはフォーカシングの技法の一つなのですが、どこから来たものかはわからない、と言われました。
フォーカシングが影響を受けた「現象学」では「括弧に括る」というそうです。
つまりは、いろんな「気がかり」から間を置くこと。
「間が置けない人を『間抜け』と言うんですよ」という余談付きの説明に、なるほど! と一同うなづきました。

「クリアリング ア スペース」のやり方(いろんなやり方があるうちの1つ)

1 「そのことを思うと、どんな感じがするか? 感じてみて」と「ことがら+感じ」を出してもらう。(フェルトセンスとして感じてみる)

2 「そのことを、ちょっとの間、置いておくとしたら、どこがいいでしょう?」と、ちょうどいい場所を見つけてあげるよう促す。見える場所の方がいい場合もそうでない場合もある。「捨てる」類いはいまくいかない。たとえば、海に捨てたとしたも、また、海岸に打ち上げられたり、と返って来たりする。どんな感情も「自分の気持ち」だから大切に扱う。(適切なキョリを見つける)

3 「他にありますか?」という声かけで、次々と自分の「気がかり」に対して、適切に置ける場所を探していく。

「どうしても置けない場合は、どうすればいいですか?」という質問がありました。
その場合は「置けないことに気づく」ことが大事で、「それを置けない自分はどんな自分?」と「観我(かんが)」に向かうか、「それはどこに行きたがっていますか?」と「もの」に主導権を渡す。
それでも置けない場合は、「そんな気持ちがあったことに気づいておきましょう」と「置けない」自分を受け入れる。

「クリアリング ア スペース」を行うと、出してもらう「ことがら」の、具体的な中身が問いかける人にわからなくても、その「ことがら」を出している人は、それとのつきあい方が変わるので、問題そのものが変わる。
つまり、「悩み」とは「悩むこと」ではなく、それとのキョリが取れないことが問題なのだ、と。

「クリアリング ア スペース」とは、「心の中を片付けて、空間を作ること」である、と。
高野山でも「悟りを開きたい人は部屋を片付けなさい」と言われるそうな。で、実際に部屋の片付けをするそうです。
心理現象と物理現象は繋がっているのだな、と思いました。
確かに。散らかった部屋にいると心が荒んでいくし、精神衛生上も良くないんだ、と。

「クリアリング ア スペース」を初めて私に教えてくださったのは有村凛さんでしたけど、その時は画用紙を使って、でした。
私は、視覚化されるこの方法が、結構気に入っているのですが、画用紙がない場合でも「クリアリング ア スペース」が出来るんだなあ、というのは発見でした。
イメージ化が苦手な人には、視覚化できる方がやりやすいかもしれません。
人にもよるし、状況にもよるんですが、やり方が増えたのは嬉しいことです。

さて。初日はここまでで、2日目の最初の時間に、ジェンドリンの「フォーカシング 6ステップ」の説明がありました。

ジェンドリンの「フォーカシング6ステップ」

1 「クリアリング ア スペース」
2 フェルトセンス
3 ハンドル(見出し・手がかり)表現をみつける
   (ハンドル表現=この言葉で表現すると、なんとか全体がつかめる、という言葉)
4 ハンドル表現をリゾネイト(響かせる・確保する)する
5 (理解のための)問いかけ(6つ)(「もやもや」はフェルトセンスの例)…その場にふさわしいものを選んで使う
   ① この「もやもや」はあなたに何を伝えているのでしょうか?
   ② この「もやもや」はいったい何でしょう?
   ③ その状況の何が「もやもや」みたいなのでしょう?
   ④ この「もやもや」は何を必要としているのでしょう?
   ⑤ この「もやもや」とかけて、その状況ととく、その心は? (なぞかけ)
   ⑥ 「もやもや」と一緒にいましょう。何か浮かんできますか?
6 受け止める

この6ステップは直線的に進むのではなく、2→5については、何回かグルグル回るイメージ。
そして、この2→5のサイクルを回すことが大事で、うまく回らない時に、「5」の6つの問いかけがあるのだと。

フェルトセンスが強い感情となってきたら、少し遠ざける。
その時の声掛けは「ちょっと遠目に見てみましょう」。
他に…「この辛さは、私にとってどんな意味があったのだろう?」「この辛さはあなたに何を伝えたいのだろう?」などの声掛けで、サイクルが回る、と。

内省力が弱い人には「プレセラピー」が必要である、とも言われました。
「感じること」を予め、「教育する」のだそうです。

池見先生は『傾聴 心理臨床学 アップデートとフォーカシング』という最新のご著書(2016年3月)のpp.130-131をコピーして配布してくださったのですが、そこには「5つの問いかけ」が記載されていました。
…つまり、出版されてから、この半年足らずで、6つ目の問いかけが増えたのですね。
常に「より良いもの」を求める、先生の姿勢を感じました。

さすがに、今日はここまで、でしょうね。
画像は2日目の池見陽氏。グラサン・短パン姿での登場にちょっとびっくり。

フォーカシング
2017/08/01
私のフォーカシング・レッスン〜池見陽氏のワークショップ〜(3)  
前回は、アニマル=クロッシングというペア・ワークが私の中でどのように進行していったか、についてレポートしたところで終わりました。

そのペア・ワークを終えたところで、次の「デモ・セッション」に入る前にフォーカシングについての説明がありました。
フォーカシングでは「凍りついた全体性」という言い方があり、それは「構造拘束」を意味する、と。
(「構造拘束」という言葉自体が馴染みのないものだったので、調べてみたら、ジェンドリンが1961年に、「2つに分類される体験様式」の1つである、とし、それぞれが精神健康に異なる影響を及ぼす、としたもの。
「ネガティブな体験内容が反復し、暗黙の機能が停止している様式」と定義される。ちなみにもう一つは「過程進行中の体験様式」)
ゲシュタルト療法で近い概念は「凍りついた炎」。

以下、ゲシュタルト療法とフォーカシングの違いを際立たせるような話が続きます。
それは、ゲシュタルトとフォーカシングの違いは何なんだろう? と思う私にとって、とても刺激的なことでした。

フォーカシングにおいて、聴く側は追体験する。(池見さんは「共感」という言葉に違和感をお持ちで、「追体験」という語を用いる、と言われました。)
それは、言い換えると「受容的で共感的で、自己一致している状態」。

そして、「再帰性」が起こる。
それは、言葉にした途端、違和感を感じて「そうではないことがわかる」こと。
たとえば、「私はキリンです」といった途端に、いや、そうじゃない、とわかって、別の「何か」を探り始める…ことの連続で、アニ=クロは進んでいったのではないか、と。

「リフレクション」(=相手の言った言葉をそのまま伝え直すこと)は、「傾聴」して「受容」していることを意味するのではなくて、「再帰性」を確認するためにあるのだ、と。
つまりは、「あなたの言ったことを私は聴いていますよ」という意味ではなく、「あなたは◯◯と言いましたが、その言葉でしっくりきますか?」という確認しているのだということ。

…これは、衝撃的でした。そうなのか、と。そうか、「おうむ返し」じゃダメなんだ、と。
この確認過程が、「一緒にあなたのモヤモヤ(=言葉にしにくい、フェルトセンス)の正体を探っていきましょう」になるのか、と。

「何かワザを仕掛けていくのではなくて、その人の中にフォーカシングが起こるように、一緒に考えていく」のだと言われました。その人の中に答えはある、その人の感じる中にヒントがある、という立場はゲシュタルトと変わらない、と。
自分の問題にならないと解決しないので、解決してあげるのではなく、一緒に考えるのだ、と。
だから、できるだけ、まだ言葉にならないところを探るのだ、と。

そしてデモ・セッションに入りました。

セッション後に、3つのことを話されました。
1つは、「掛け合わせて考える」ということ。
セッションの中で、「掛け合わされた」ものは、池見さんと、(セッションを受けた)フォーカサー。
途中、池見さんから「蹴散らしたいんだけど、全然そんなことを考えてもないように座っているんじゃない?」という言葉掛けがあったのだけど、これは、外れてもいい、掛け合わせたらどうなる? という気持ちが池見さんにあったそうです。

一見、「ワザを仕掛ける」風にも見えますが、セッションをしていて、池見さんに自然に湧き起こってきたことで、それに対して素直に「自己一致」させて出てきた言葉なんだろう、と受け取りました。
そしてそれはアニ=クロでも同じで、あのワークは何をしているのかというと、動物と自分を掛け合わせて考えているのだ、と。
…それは、自分の状態を捉えようとする「過程」(=プロセス)なのですね。

もう1つは、「推進された“だった”(Carried foward “was”)」
体験過程で、過去がクリエイトされる(創り出される)ということ。
今の気づきが過去を変えるということ。
ああ、そうだったんだ…と、過去の持つ意味が変わるのですね。

もう1つは、「体験的キョリ」。
近すぎても遠すぎてもダメで、近すぎると感情が先立つし、遠すぎると何も感じない。
だから、セッションでは遠すぎると近づけるようにするし、近すぎると遠ざける。
「今のイライラ」にこだわるのではなく、その先にあるものを見る。
つまりは、インプロセス(=進行中)であることが大事で、セッションはプロセスが止まっているか動いているかを見る、のだと。
インプロセスは仮設の連続で、仮説は常に動く、と。

シリーズ5回で終わる予定が…終わりそうにない不安を抱えながら、ひとまず今日はここまで。
(初日のまとめが、まだ終わっていません…)

画像は富良野の富田ファームで見かけたハンギングバスケット。
あれかこれか、ちょうどゲシュタルトとフォーカシングを釣り比べているようで、選びました。
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