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沙羅 Sara の「ほっと一息」コラム

沙羅 Sara の「ほっと一息」コラム
日々の暮らしの中で、ちょっと気づいたこと、ほっと一息つけるようなことがらをコラムとしてまとめました。
あなたの「お役立ち」になるかどうか、心許ないですが、興味を持った「カテゴリー」から読んでみてくださいね。

カテゴリーごとに選べます。
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フォーカシング
2017/07/31
私のフォーカシング・レッスン〜池見陽氏のワークショップ〜(2)  
前回の続きです。
15分の休憩後、「アニマル=クロッシング(Crossing with Animals)」という「ペア・ワーク」を行うことを池見陽氏から提案されました。

「アニ=クロ(アニマル=クロッシング)」とは、どんなものか?
・最近の自分の生きているありさまを振り返って、動物で表す
・たとえば、「私は、荷物を運ぶのに疲れた蟻です。」「私は、アスファルトの道路に出てきたミミズです。」など。
・その動物は、途中で変わってきてもOK!
・また、現実にありえないことでもOK! たとえば、飛ぶはずのないものが空を飛んでいてもいい。
・人格理論を挟み込まないこと。たとえば、「猫が出てきた、ということは、自己愛を表していますね」というような決めつけは、NG。

始めるにあたって、先に「体験過程」の説明がありました。

「体験過程」
「体験」→「表現」→「理解」→「体験」→「表現」→「理解」→「体験」→
というように、「体験」は「過程」を辿り、どんどん変わっていく。
ぐるぐる回りながら、意味が発生していく。

・人の体験は「からだ的」(=身体性を持っている)
・「実存」はからだで感じられている(ジェンドリンの言葉)(「実存」=私の生きているさま)
・体験には生の可能性が暗示されている。(なぜなら、「感じていることは心のメッセージ」で、人の体験は精密だから。)

ペアになって、15分ずつ。

私は、チーターになって、攻撃するというより防御していました。
襲ってくるものに対して、身を守るために噛み付く、というか。
それから、例に出されたものが引っかかっていたようで、アスファルトに出たミミズになっていました。
アスファルトは熱くて。
「アッチッチ」とぴょんぴょん跳ねながら、ミミズは一旦出てきたら戻ることは出来ないんだよね、と考えていました。
アスファルトには割れ目がないようだけど、でも! アスファルトの割れ目から出てきたのなら、きっとどこかにまた別の割れ目があるハズ、と思って探しました。
あ、あった! とその割れ目めがけて入っていったら、からだは土でぎゅうぎゅう押されていて。
なんか息苦しいなと思って、もっと伸び伸び息したい!と思って。
…飛行機の翼になっていました。

でも…飛行機の翼は動物ではないよね⁉ってことで、う〜ん…と唸っていたら、サバンナのキリンになっていました。
風が耳の横をすり抜けて行きました。
おお!キリンさん! やっぱり好きなものが出てくるんだね、と思っていたら、夕日がどーんと沈み出して。
しばらくぼんやりその夕日が沈むのを眺めてました。

あっと気づいたら、真っ暗で。サバンナの夜は怖くて。
何か襲ってくるかもしれない。
夜でも怖くないのは…と思っていたら、黒猫になっていました。
辺りは暗い中、塀の上をしっぽをピンと立てて、しゃなりしゃなりと歩いていました。

私のアニ=クロはこんな風。
…最初から気づきましたよ。
襲ってくるものに対して防御するために噛み付いている私。
まさしく、母に向かって噛み付いている私。

土の中が不自由で、飛び出した先が焼け付いたアスファルト。
これはまさしく、広島を引き上げて帰ってきた私。
こんなつもりじゃなかった…けど、戻るに戻れない。
アスファルトは熱いから、生存かけて別の割れ目に入ったら、馴染みのある息苦しさ。

飛びたいんだけど、私は翼にはなれない。
…で、私に翼はないから、ゆったりとサバンナを駆けるキリンになっていた。
いい感じ…だったのですが、それも日があるうちみたいで。
雄大な夕日が沈むのを、吸い込まれるように眺めてたというのに、真っ暗になったら怖くてたまらなくて。
サバンナも私の生きる場所ではないようで。

そしたら、街の路地にある塀の上を歩く黒猫になっていて。
一匹、でした。
月が出ていたかどうかはわからない。
でも、程よい薄暗さの中、不安もなく塀の上を、ちょっと気取って歩いていた。

ああ!こんな風に、私は好きな時間に好きな場所にいたいんだ! とわかりました。

いつ、どこで、何をしていてもいい!という感覚。
私は自由なんだ!とふつふつと身体中から笑いが込み上げてくるような感覚。
…久しく忘れていた…。

そう、ね。
まさしく、「最近の私の生きているありさま」。
自分の置かれている状況を、外から眺めることができました。

次回に続きます。

画像は、ここはやっぱり飛行機の翼、で。旭川に飛んだ時のもの。

フォーカシング
2017/07/30
私のフォーカシング・レッスン〜池見陽氏のワークショップ〜(1)  
昨日は、GNK主催の池見陽氏によるフォーカシングのワークショップ(2日間)の初日でした。
池見陽氏との出会いは、一年半前、心理系大学院の受験を考えていた時に、関西大学の大学院説明会に参加して、でした。
臨床心理士資格を取ろうと考えていた私は、どこの大学院にしようか考えあぐねて、百武正嗣さんが「フォーカシングの池見さんは僕に近いんだよね」と言った一言で、どんな人なんだろうかと会いに行ったのです。(池見陽氏は関西大学大学院の教授)。

会いに行くにあたって、フォーカシングってどんなものだろうと『心のメッセージを聴く』(講談社新書)も、『僕のフォーカシング=カウンセリングーひとときの生を言い表すー』も買って読みました。
アン・ワンザーコーネルの『やさしいフォーカシングーじぶんでできる心の処方ー』も買って読みました。

関西大学大学院の説明も聞き、「青空フォーカシング」も申し込んで参加し、で、私は関西大学への受験をやめたのです。

いえ、池見先生は、素敵な人だなあと思いました。
けれど、ゲシュタルト療法のプレトレーニング60時間を終えたばかりで、まだ「ゲシュタルトってなんだろう?」がつかめていない状態でフォーカシングに走ったら、訳が分からなくなりそうだ、と思ったからです。
もうちょっと、「ゲシュタルトってなに?」がつかめてからにしようと、断念しました。

一旦、「関西大学」受験を考えたので、関大の授業料は2年間で280万円程だったので、なんかタガがはずれたのか、京都文教大学の授業料も同じぐらい高かったのですが、まあ、いいか、と単位等履修生になりました。
京都文教大学への道を開いたのは、関西大学受験を考えたこと、ということになります。

まあ、結局は、京都文教大学への進学も取りやめることにするのですが。

そういった「因縁」のある池見陽氏のワークショップ、というので、心待ちにしていました。
一年半前と違って、私はフォーカシングをどんな風に受け止めるのだろうか? が知りたかったのです。

最初の1時間半は、「フォーカシングとゲシュタルトはどういう位置関係?」の解説。
1950年〜70年の「ヒューマニスティック・サイコロジー」と呼ばれるグループの仲間だと言われました。(池見氏は「人間らしい心理学」と訳されているそうです)
「人間らしい」とは、統計や動物実験からは遠い、人間とは何かを根底にした、という意味で用いられている、とのこと。
その背後の思想として、1つは人種差別により人間を人間としてみないことへの疑問を呈した「人権運動の流れ」があり、1つは、60年代のベトナム戦争での非人間的な兵士体験がある、とのことでした。

その「人間らしい心理学」のグループに入るのは、1つはカール・ロジャーズの「パーソン・センタード・アプローチ」、1つはフリッツ・パールズの「ゲシュタルト・セラピー」、そしてアブラハム・マズローの「何も不足していなくとも、人には自己実現欲求がある」とした、マズロー心理学。(マズローは、心理療法家ではなかったそう)
そのうちのカール・ロジャーズの「パーソン・センタード・アプローチ」から生まれた、ユージン・ジェンドリンの「フォーカシング」。
で、最近は、フォーカシングとゲシュタルト療法を合わせたEFT(Emotion Focused Therapy)が取り沙汰されているそうです。
…つまりは、ゲシュタルトとフォーカシングは近しい関係にある、とのこと。

ジェンドリンはそもそも哲学者で、フォーカシングを全く知らなくても「ジェンドリン哲学」は成立する、と。
そもそもロジャーズは「(カウンセラーは)カウンセリングの中で、人がフォーカスすること(=フォーカシング)を援助している」と言われたらしくて、それをもっと明確にしたのがフォーカシング。
だから、フォーカシングのワークは「人の中で起こっていることを援助する」(=自分の中で起こっていることに気づかせてあげる)ものなのだ、と。

以下、池見陽氏の言葉を羅列します。
・フォーカシングでとても大切にしているのは、人の体験は言葉と論理によって構成されていない、ということ
・「今、この場で何を体験していますか?」「どのように感じていますか?」と訊かれてもすぐには答えられない。そこに何かあるが、なかなか言葉で言えない。でも、なかなか言葉で言えないそれをなんとか言葉にすることで、そこに新しい「理解」というものが生じる
・なかなか言葉にできないものを言葉にすることで新しい発見につながる
・人が生きている実態は、言葉や論理でできていない
・「あなたはどんな人ですか?」「僕はどんな人ですか?」は、一言では言えない。新しい言葉で表現できたら、新しい関係ができる
・すごく言いにくい(=フェルトセンス)、そこと付き合うことで新しい関係を作り上げる
・存在は「前存在論的」である」とジェンドリンは言った。(「存在論」とは「〜とは何か」を問うもの。「前存在論的」とは、存在論に先立って成立している、ということ。「〜とは何か」を問う前に、既に存在している、ということ。)
・人は言葉にできない何か(=フェルトセンス)に触れると、創造的になれる

長くなったので、続きは次回。

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