先月、浅田慈照尼宅を訪れたとき、私は1つのことをお願いしました。
それは、『ティク・ナット・ハンの般若心経』(馬籠久美子訳・2018年4月第1版第1刷・野草社)を一緒に読んでいって欲しい、ということです。
ティク・ナット・ハン師の『ブッダの<気づき>の瞑想』という本を、どういういきさつからか、自分で探して持っていました。
そこに、ともこさんの紹介で櫻井詢晃(じゅんこ)さんの「Zoomでサンガ〜仏陀の呼吸の瞑想」に参加するようになって、テキストの『ブッダの<呼吸>の瞑想』を買い求め、定期的に『<呼吸>の瞑想』に触れるようになりました。
その後、ティク・ナット・ハン師の本として『般若心経』があることに気づき、取り寄せました。
この本を手にしたのが、浅田慈照尼宅を訪れるようになってからで、そのふたつが私の中で結びついて、「そうだ! この本を一緒に読んでいくことをお願いできないだろうか?」という思いが湧き起こってきたのです。
一緒に、などということは「おこがましいこと」と認識しています。
しかし…と私は思うのです。
お経は基本「如是我聞」、つまり「是(か)くの如(ごと)く、我は聞き」という、教えを説いて聴かせていただいた者が伝える、という形を取る。
しかも、般若心経は、智慧第一の「舎利弗(しゃりほつ)」という弟子に語りかける形態。
般若心経の中では「舎利子(しゃりし)」として出てくる。「子」は男子に対する尊称だったか、と思います。…私の漢文の知識では。
なぜお釈迦さまが舎利弗に語りかけたか、という問題は、やはり、舎利弗でなければならなかった、気がしています。
おそらくは…舎利弗は、適切な「問い」を発する人ではなかったのか?
そんな風に思います。
話、というものは、「問い」があって深まっていくもの、という認識を、私はしています。
ソクラテスの「問答法」ではないですが、適切な「問い」があって、「教え」は更に開かれる。
受け手が自分の「認識」を正確に確認するための「問い」が、より深い「教え」を導く、と私は認識しています。
だから、「答え」よりも「問い」が大切だと思うのです。
私は、これまでの私の人生をかけて、全身全霊の「問い」を投げかけたいのです。…他ならぬ浅田慈照尼に。
教えを請う、ということは、そういうことではないか、と私は考えています。
ティク・ナット・ハン師の本をテキストとすることに、浅田慈照尼は同意してくださって。
他の人の訳本でなくてよかった、と言われました。
ティク・ナット・ハンさんは、サンスクリット語から直接訳されているから、と。
他の方だと、漢語訳からの訳本となり、直訳ではなくなる。
それは、漢語訳をした人の解釈が混じってしまうことになるから…ということでした。
そういった「事情」も知らずに選んだのですが、やはり、こういうことも「出会い」なのか、という気がしました。